昭和五十七年九月八日 朝の御理解


 御理解第四十四節
狐狸でさえ、神にまつられることを喜ぶというではないか。人は万物の霊長      なれば、死したる後、神にまつられ、神になる事を楽しみに信心せよ。


神になり、神に祭られる事を楽しみに信心せよと、金光教の信心の眼目ですね。生神を 目指すといわれるここでは、この世はあの世を目指すと言われます。だから、この世で、また教祖の御言葉に、この世で神にならずしてあの世で神になれるかという御言葉があります。ですから、この世で神になる、そういう手立てを頂いてそして精進していく信心生活が、金光教で言う信心生活とは、神になる稽古です、ね。
死したる後神になる為には、どうでもそういう楽しみに信心さしてもらう。その、信心 さして頂くという事が、どこに焦点を、ま、焦点は今いう生神という事でしょうか。信心の焦点を、どこにおいて日々稽古、まあ手の届きそうもないいような生神を目指すというても、一段一段、一歩一歩それに近付いて行くその手立てが教えられ、またその教えを行じていく事にならなければならない。その行じていく具合で、今度はそれにおかげも寄り添うように、伴うて来るというのがお道の信心。
ですから、やはり信心の喜びというものが段々育ってくると、それにはいわゆるおかげ の楽しみというものがついてくる。信心の喜び、おかげの楽しみと。どうしてもだから参りました、拝みましたじゃなくて本気でね、本気でその教えに取り組む生活をしなきゃだめです。それに、例えば失敗してもね、本気でそれを思うといつも申しますように、出来んけども出来たかのようにしておかげくださるもんです、ね。
本気で、これで行こうと。例えば、間違いのない教えを心の中に頂いてね、それを日常 生活の上にも頂き表わして行こうと本気で思う。それでも、やっぱり生身を持っておりますから失敗を致します。失敗するけれども、そこにはまたお詫びをして、また取り組んで行くという内に、いつの間にか、いつの間にかおかげを頂いてきておる。
私は今朝方から、もう本当に、本当に不愉快なお夢をずっと続けて頂いておったんです けど、それが自分にまあだこんなものを、精神状態、心の状態が残っておるのだろうかと思うような感じのお夢でした。と、言うのは舞台というか、その場は椛目の昔のお広前なんです。沢山おまいりがあっている。何か、月次祭か何か仕える。もう一杯で、こちらは廊下でしたが、廊下にも一杯、ゾロゾロ入ってみえとる。そすとやっぱりお月次祭の時には、この、ここにこれだけ空くでしょ。少しばかり空いている所に、その隣の定男さん、田中定男さんが自分としては押し寄せよるつもりでしょ、「皆さん、この廊下に並んでおられる方は前の方へどうぞ行って下さい」ち、言いよるんですよ。それで、私がそれを聞いてから、「おそから参って来た者は前に出るこつがいろかい。馬鹿じゃあるの」ち、私が言っておるところなんです。そしたら、楽室の方から定男さんのお母さんである、楽長の田中さんがえらい剣幕でね、「定男は、いうなら教会の事を思うてああいよるとにです、親先生からそういう、そのお言葉を聞こうとは思わなかった。こげなことは一生忘れられん」と言うて、私に言いよる。そいから私もまた、「あんたが今言うたことは、私も一生忘れん」と、こう言ってるわけなんです。
もう、目の覚めてからもう本当にこんな気持ちはない。も、それこそさらさらないのに 夢の中ではどうして出て来たんだろう。どうしたことだろうかと思わしてもらって、まあこの夢から皆さん感じて頂かなきゃならん事はね。も本気で、例えば黙って納めるとか成り行きを尊ぶとか大切にする、本気で思うておるけれども失敗したわけです。けども、も本気で思うておるから、なら御信者はいっぱいあるという事です。ね。
だからね、本気でね、こう改まろうとか本気で信心を身に付けようと本気で思うて、例 えよしここで失敗をいたしまいしてもね、それが出来たかのようにしておかげ下さっておるのが、この椛目時代にいうなら沢山御参りがあっておった。現在の信心と思い比べてみて大変な相違ですけれども、人がどんどん助かっておったという事。
それから、また夢から、もう本当に不愉快で不愉快でたまらん、寝んだらまたお夢を頂 きよる。それも、やっぱ何かこう目が覚めてみてガッカリするような事を言うたり思うたりしておる。それで神様の前に御祈念をさして頂いておる。しっかりお詫びさして頂くけれども心が晴れん。御信者は、沢山参って来ておるけれども、御信者をほうたらかしといてちょっと「私は、親教会にお詫びに出て来なければ気が済まん」と言うて、自転車で親教会にお詫びに出ろうと自転車でしておる。ところが、自転車の空気がぬけておる。その自転車の空気入れを借りに行くのが隣の田中の家にある、というわけですよね。
それが夢のこう切れとりますけれども、前にそんな、、あんたがそんな言うた事は一生 忘れん、私も忘れんと言ったような事を言うておるもんですから、そういう根が残っておるからどうも隣には借りには行かれんと。ま、依怙地(いこじ)な気持ちで、その空気入れを借りに行かんなり、自転車に乗らずに歩いてお参りしようと言うておるところであった。
ここでは、例えば昨日の御理解、問題を問題、合楽理念がわかったら問題を問題にする 事はないんだ。もうみんな御礼を申し上げる事ばっかりなんだ。それに問題を問題として、しかも根が残った。ま、夢の中ですから前の日か何かの夢という事、あんな心で言いあっとるから、一生忘れんなんてん言いあってるから、もうちょと空気入れを借りに行けばいいのを、やっぱ根を残しとるわけね。思いを残しとる、恨みを残しとる。そういう事になりまっしょ。
そして、借りに行かんなり依怙地に自転車では行かんな、歩いてお参りしようと言って おる。そん時も御信者は、いっぱいお広前に居られるというのです。ですからね、例えば、あのこういう教えに本気で取り組もうと、例えばして、やりそこのうた時、失敗した時にですね、親教会にまでもちょっとお詫びに出らなければすまん。そういう心があれば、それこそ詫びれば許してやりたいのが親心です。そして、またそれによかよかじゃなくて、それに取り組むという事なんです。信心とは、そうしていくうちにそれがすっきりと本当なものになっていくわけです。
昨日、私一つ、研修の時に勉強した事があります。昨日は、ここの(御結界)の御用が あっておりましたから、共励殿で研修いたしました。それにある修行生が申しますのに、まあ問題を問題にしないという事は、例えば悪い事をしてもね。 例えば、人は朝参り、朝、必ず出て来るのに朝のご祈念にも出てこない。昼じゃろうが夜じゃろうが、わがよか時に遊びにでも出てゆく。私の好かん事を平気でやる。それでも、いわゆる問題を問題にせんでいいですかというような事でした。
どうでしょう皆さん、そりゃ問題を問題にせんというのだから、それもやっぱその中に 入って来るだろうが、これ、もうそれこそ問題を問題にせんという事を、それこそ、はたと私も困りましたですね、そういう質問を受けて。おして、今朝から私頂いたお夢が、ハハア、その事から関連した事であったなあとこう思うですね。
例えば本気で、例えば出来ないけれども合楽では、なら黙って治めよと言われるから治 める事に腹を決めた。それでいて、やはり失敗した。それでも相済まんという気持ち、神様にお詫びする気持ち、そしてまた、次の信心に取り組ましてもらうね、そういう時にですね、いわゆるいつでしたかね、頂いたあの中国語で横着という事はターシンという、大きい心という。大きい心と書いて、発音はターシンとこういうのです。横着という事ね、日本語では大きい心と書いたら、いわゆる大きな豊かな心という字は同じであるね。けども意味が大変違う。
昨日の修行生の言い分から言うたらですね、これは、私は横着の部に入るのじゃないで しょうかね。修行生としては、例えば、出てはならんじゃない、出る時にはちゃんとお取次を頂いて出ていけよとね。夜も昼もない、これはもう親先生が一番好かんといったような遊びなんかを平気でやる。それでいて、もう気に掛からんというのは、丁度、石川五右衛門が泥棒をしてもです、全然自分の心に響かない、悪い事と思ってない、いかにも大きな心の様だけれども横着ですから、最後には釜茹で(かまゆで)の刑といったような刑がまっとるじゃないかね。だから、横着と大きい心は違うんだ。
そして結論として、昨日、研修の時に結局信心辛抱という土台に立っての大きい心でな からなきゃならん。問題を問題にしないというもんでなからなければ、今、оо先生が言うた事のような事では、例えば、それが平気になってから親先生が好かん事をやっとるけれども、それが一つも心に掛からないという事になったら、もうおしまいだよね。もうそげんとは合楽で修行しちゃならんというような意味の事を、昨日の研修の時に話した事でした。
それを、なら問題にならない事だ、ま、こまい、こまい、ね。例えば、掟を破ってなら 外出する、こまい、こまい。それで問題にしないというなら、これはやはりおかしいね。信心辛抱力というのが出来た、その土台に立ったところの問題を問題にしないという生 き方、一切神愛論と一切神愛とする頂き方ね。
例えば、自分がだらしがなくなったり自分が悪い事をしたりしてですね、それを神愛の 中という事にいかん。それはね、例えばまた失敗した、もう失敗しちゃならんと思いながらまた失敗した。そこには、もうとにかく家の神様でお詫びしたけれども心がすっきりせん、親教会まででんお詫びに出ていかんならん。もうこれからは失敗しませんといったようなものがあって、初めてそれこそ一段一段本当なものにすっきりとしていく事になり、ね。私は神になるという事は、そういう修行が繰り返し繰り返し繰り返されていってね。いわゆる生神というような精進が出来るんだというふうに思うんです。
そして、思わしてもらう事は出けん、また失敗をした。でも、本気でそれをやろうやろ うという気になっとれば御比礼の落ちる事はない。沢山の御信者が、あの私の夢の中にいつの場合でもいっぱい御信者がお参りになっとるというところから思うてみてです。もう自分な出けんといって投げやりにしたり、それを大きな心でいわゆる横着な心で問題にしないようになったらおしまいだ、ね。
そこに、もう本当に泣くごたる心でお詫びをするという事なんです。また失敗をしまし た、とね。
そして、今度は失敗はせんぞというそういう稽古が繰り返し繰り返されて、もう失敗じ ゃない。そういう信心がいうなら身についてしまったというところに、私は生神の境地というね。神になるという事はそういうこと、また神に祭られる事を楽しみそういう精進をする、ね。だから先が楽しみなんである、ね。
御霊の世界に入ってもね、いわゆるたいおというか死生観というものもすっきりとした 死生観が生れてくると思うんです。この心の状態で、この心をあの世にも持って行くんだというね。
私は昨日の研修の時に、私が感じた事をお夢の中に頂いてきた。いうなら何十年前、何 十年、私の信心にもそういうものはなかったように思うのですけれども、夢の中ではそういうような聞いて頂いたような事でしたがね。だから、この事をはっきり分からせる為のお夢であっただろうかと思います、ね。
あれからあんな事を言われたから、もう一生忘れんといったような妙なそんな心は、い わゆる神に向かう者としてはもっての他の事であったりね。
向こうが言うたからこちらも言い返したと、後であげなこつ言わな良かったというよう な事を言ってしまうような事もあろうけれども、ね。そこんところをいわゆるまた失敗したとしてお詫びする心。そして、もう失敗はしちゃならんというそういう修行させて頂いて、初めて一切神愛という実感としての一切神愛が分かるという事であるし、ね。問題を問題としないで済むと生き方がいよいよ身についてくるというふうに思います。
だから、ここからこれ迄の事が出来なければおかげはやらんぞと言うのじゃない事がわ かりますね。
私が次々失敗しよるけれども、本気でそれを改めよう本気でそういう信心を身につけよ うと、思いは一生懸命あるのですからもう出来たかのようにしておかげは下さってあったという事。それが段々本当のものになって、ね。それこそ不平を言わんですむ、いや言わんで済むどころじゃない思わんで済むような世界がある。そういう道を辿らせて頂くのですから、ね。そういう精進こそが、神になり神に祭られる精進じゃないでしょうかね。
                              「どうぞ」